蜃気楼

 

 

 昼下がりに家を出た。 日曜日はパンを食べると何となく決めている。 特に理由は無いけど、下手をすると一日中家から出ず惰眠を貪ってしまうので、無理矢理自分を行動させるルーティンを作ろうとした結果なのかもしれない。 

 上を見上げると雨雲の隙間から青い色がチラついていて、思いのほか明るく、晴れを想像させたのだけれど、トタン屋根の上に雨粒が跳ね返る音が聞こえて、傘が必要なこと、自転車が使えないことを教えてくれた。 仕方無く玄関に置いてあった、まだ濡れている傘を開いた。 骨が外れているのでスムーズに開かないのが難点だが、穴が空いている訳では無いし、壊れているが使えないこともないのでそのまま使用している。 買い換えるのもなんだか勿体ないような気もするし、第一、傘を捨てるというのは結構面倒である。 何年か前の台風の時に使っていた傘は、その時に空中分解してしまった。 ステンレスの骨がむき出しになって仕舞えない傘を持って鮨詰め状態のバスに乗るのは些か気が引けたし、息をするのもやっとの状態だったので、泣く泣くバス停に置き去りにしていったのだけれど、そんな事もあったなと思い返した時にはそこにあったものはもう跡形も無く消えていた。 大方誰かが捨ててくださったか、風で飛ばされたかだと思うが、なかなかどうして自分は薄情で罪深い人間だと感じる。 傘ひとつでこんな風に思うのだから、もし人を殺してしまったら自分はどうなってしまうのだろう。

 目の前に黒いランドセルが浮かんでいる。それをぼんやりと、しかし、正しい殺意を持って睨みながら、体面上では他の子供と同じように列に並んで歩を進めている。 それは私に与えられた義務であり、権利でもある。 逆らうことは基本許されない。私は普通の子供で、列からはみ出すことは異常と見なされる。 可哀想な子にはなりたくない。 それはなけなしのプライドだったのだと思う。 だから、そんな感情は無視して、行かなくちゃいけないのだ。 しかし、暴走した劣勢の遺伝子、自己をコントロールし、怒りの感情を自分の中に押しこめるにはまだ幼過ぎた。 結果的に頭の中は真っ白になっていて、黒いランドセルを手に掴んだ後のことはあまり覚えていない。 そういう破壊衝動が自分の中に燻っていて、ふとした瞬間に顔を覗かせるのが嫌で仕方が無いし、現に大人になって、多少精神が落ち着いてもそれが消えることは無い。 流石に人に対して手が出ることは無いが、結局、モノにベクトルが変わっただけで、自分のそういう所は全く変わっていないから嫌になる。 雨は嫌いだ。 どんよりと湿った空気はこういう陰鬱な記憶を呼び起こす。 別に人を殺すことはないと思うけど、似たような衝動は自分にもあるし、父親にも母親にもあったことなのだから、どうしたって1番劣勢の遺伝子を受け継いでるのは私だ、と、時折恐くなる。 だから私は家族を作りたくないし、ありとあらゆる結果をもたらすことに起因する感情の起伏が欲しくない。そんなことを言ったって社会で生きていく上で他人との関わりを断絶することなんて不可能だし、生物学的な本能の部分を否定することもできやしないのも分かっている。 分かっているからこそ、矛盾した自分の感情が気持ち悪くて堪らないし、早く死んでしまいたいと思う気持ちが年々強くなる。 

 そんなことを考えながら中途半端に濡れたアスファルトをぼんやり眺めながら帰路に着く。 ふと思い立ち、普段とは違う道を選んでみた。 住宅地なので特に目新しいものは無いけれど、その一角に、小さな公園があるのを見つけた。 雨が降っているし、凌げる場所も無いので、誰もいなかったけれど、とりわけ鮮やかな色彩を放つ遊具は、周りの灰色がかった風景とは何となくミスマッチだし、何だか毒々しく感じられた。 スプリング式の、動物を模した遊具は此方の方を一心に凝視していて、思わず目を逸らしてしまったし、真ん中にある滑り台のようなジャングルジムのような、よく分からない遊具の下には、自転車が雨宿りをするように置かれていて、何だか滑稽で、おかしかった。 特に足を止めるでもなく少し眺めて過ぎ去っただけなのだけれど、何となく自分はあの公園みたいだな、とひとりごちて、気付いたら家に着いていた。

 家を出る前に洗濯機を回しておいたので、それを干しながら、そういえばそろそろ業者から電話がかかってくる時間だったことを思い出して、携帯を取り出した。 既に何回か、スルーしてしまっている。 通知欄を開くと、不在着信が2件。 やっぱり私は、小難しいことを無駄に考えて勝手にネガティヴになっているだけの、普通の人間だよなあと、嘆息した。